東海道随一の関の町並み!
JR関駅で、今日の鈴鹿峠の案内人として僕を待っていたのは自称「鈴鹿鈴子」。古くから鈴鹿峠の女番人として君臨した「鈴鹿御前」の子孫なのだそうです。
「鈴鹿御前」とは、平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられたこの三重・滋賀県境の鈴鹿山にすむ武勇と美貌に秀でた女人で、鬼退治に来た坂上田村麻呂らとともにこの鈴鹿峠の治安を守ったとされている人物。
「私抜きで鈴鹿峠を一人で越えるのはリスク高いわよ。鈴鹿峠でバーベキュー食べさせてくださいな。そうすればお供しますよ」
彼女はそう言って、僕のお供となることを申し出たのでした。
桃太郎かよっ!
そんなわけで(どんなわけだ!)ともかく僕は鈴子と関駅で待ち合わせ、いざ、鈴鹿峠越えにチャレンジしたのでした。
まずは再び関の宿場町に戻り、旧東海道を西へと進みます。百五銀行から少し西側にあるのが、百六里庭(ひゃくろくりてい)。江戸からちょうど百六里あるのでそう名付けられた小公園です。
この百六里庭に隣接した建物「眺関亭(ちょうかんてい)」の2階からの眺望が素晴らしいのです。
こっちが亀山側(江戸方面)。
こっちが鈴鹿峠側(京都方面)。
鈴鹿峠の青黒い山塊がいよいよ目の前にデーンと出てきましたね。負けねーぞ、鈴鹿峠!!
僕の気合を感じたのか、「すごく大きく見えるけど、そんなに高い山じゃないわ」と鈴子が隣りでつぶやきます。
私がいるから大丈夫。
あれっ?
突然鈴子が声をあげます。なんか気になる人影がある!
おいおいおいおい、そー来るか鈴子。江戸の衣装を着た普通の旅人にしか見えねーぞ。しかもおねーちゃんはなかなかきれいめだぞ、横のおにーちゃんはちょっとなんちゃってっぽいけど。
そんな僕の言葉はまったく届かなかったようで、鈴子は慌てて2階から駆け降りて、2人のあとを尾行し始めたようでしたが、ほどなくしてあっさりと戻ってくると、こう言いました。「あれは盗賊じゃないわ、だって着物にスニーカーだもん。ニセモノだわ・・・」
関は古くからの建築物を保存しているので、町中を歩いていてもタイムスリップしたよう。
3連休だけあって、中心部には観光客もたくさんいましたが、やがてだんだん人影がなくなり、道も次第に上りとなり始めます。
西の追分を過ぎると関宿の宿場町は終わり、いよいよ本当に鈴鹿峠が前の前に迫ってきます。
歌川広重 東海道五十三次 阪之下 筆捨嶺 │ 筆捨嶺とは鈴鹿山脈を形成する山の一つである岩根山の別称。稀代の絵師、狩野元信があまりの絶景に描くのを諦めるほどであったという逸話からそう呼ばれる様になったとか。
いよいよ鈴鹿峠へ
国道1号線をしばらく歩いて、再び旧道に入ると坂下宿の集落に入ります。ここに鈴鹿馬子唄会館なるものがありました。
「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた鈴鹿馬子唄の発祥の地が、この鈴鹿峠の麓の坂下宿なのだそうです。
鈴鹿馬子唄ってのはこの地の地形と気候の関係をうまく表現した唄らしく、
「坂は照る照る」:伊勢の関宿側から坂を上っているときは燦々と陽がさしているのに
「峠は曇る」:鈴鹿峠にかかるとにわかに曇りだして
「あいの土山雨が降る」:近江側の土山宿に抜けるといつの間にか雨が降っている
というような感じなんだと思います。現代風に言うと、東海道新幹線で岐阜あたりから関ヶ原を抜けて米原に抜けるときのようなものでしょう。
こんな山の中には不釣り合いなほど道幅も広く、立派な坂下宿の旧街道を通り抜けると、いよいよ鈴鹿峠は目前です。
旧道が国道に合流するあたりに古い祠のようなものがあったので、門の扉を開けて入ってみます。
ここは岩家十一面観世音菩薩というらしく、横に細い滝が流れていましたが、鈴子は何かを感じるらしく、中まで入ってこないので、僕も深入りはやめておきました。
この先、旧東海道のルートをたどる地図をみると、目の前にある国道ではなく、山の中の道なき道を指し示しています。どうやら現在は東海自然歩道の一部になっている、この山道のようです。
うへー。結構厳しい上りですね。
こんな道、大名行列が通るのは到底無理だろう、と思いますが、鈴子が迷いもなくズンズンと奥に進んでいくので、彼女を追いかけるように僕もそれにしたがって歩きます。
山道を結構歩いたつもりでしたが、無駄にアップダウンがあったせいか意外に距離はかせげていなくて、再び国道に合流した場所は直線距離にすると500メートルくらいしか進んでいないような感じでした。
おまけに丈の短い靴下を履いていたせいで、肌が露出していた部分を途中で山蛭に食われたらしく、宿について気づくまでに結構血を吸われてました。。。
そして到着したのが、このバーベキュー鈴鹿峠。