「それでもあの窯を使いたい」
「やきもの(焼き物)」を沖縄風の発音で言うと「やちむん」になります。
つまり、陶器のことです。
その歴史は古く、またしても琉球王国時代までさかのぼります。
1682年、尚貞王(しょうていおう)が焼き物産業を発展させようと、現在の那覇市「壺屋(つぼや)」という場所に陶工たちを集めました。
やちむんの原点「壺屋焼」の始まりです。
伝統模様の「菊唐草(きくからくさ)」。自然をモチーフにしたやちむんが多くみられました。
琉球王国から沖縄県となったとき、県外から安価な陶器が手に入りやすくなったため、壺屋焼はいったん衰退の道をたどります。
しかし、1926年に提唱された「民藝運動(みんげいうんどう)」で息を吹き返します。
「魚紋(ぎょもん)」の線彫り。人気・知名度ともに高く、子孫繁栄を意味する縁起物。
民藝運動とは、「名も無き職人たちが作った日常生活の道具は、美術品に負けないくらい美しい」ということを提唱したものです。
しかし、またしても壺屋焼職人に逆風が吹きつけます。
「点打ち」や「ドット」といわれる絵付け。
1970年代、陶器を焼くときに出てくる煙が公害問題として取り上げられてしまいます。
職人さん達は「あるもの」を失ってしまいます。
やちむんの里の「登り窯」
あるものとは、「登り窯(のぼりがま)」という陶器を焼く窯(かま)です。
熱の対流を起こし、陶器を均一に焼くことが出来るそうです。
文化村構想を進めていた読谷村が発案し、職人さん達に登り窯の建設を勧めました。
この窯を求めた職人さん達は、読谷村へと拠点を移し始めました。
そしていつしか、多くの工房や販売店舗が集まる集落となり、「やちむんの里」と呼ばれるようになります。
ギャラリーを併設した工房が立ち並んでいます。中にはカフェを併設する工房もありました。
「やちむんの美しさ、手になじむ感触を日常用品として味わってもらいたい」
そんな職人さんたちの素朴ながらも熱い想いが伝わってくるようでした。
現在はさらに北へ、沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)へと工房を移す職人さんもいるのだとか。時代の流れの中で柔軟に対応しながら、これからも「やちむん」を伝え続けていくのでしょう。
「喫茶&ギャラリー まらなた」。60名ほどの作家さんの作品を取り扱っていました。
美しさの中にある温かさ
私がやちむんの里の中で特に印象に残った職人さんのギャラリーから、2つご紹介したいと思います。
まずは「常秀(つねひで)工房」さんです。
工房に隣接する「うつわ家」はこじんまりとしたギャラリーながら、色鮮やかで様々な形をしたやちむんがずらり。
中でも、個性的な「点打ち」や「蝋抜き(ろうぬき)…溶かしたロウで模様を隠す技法」のお皿が近代的でとても印象的でした。
ここは、前述の公害問題の際に読谷村へと工房を移し、沖縄初の人間国宝となった故・金城次郎さんの窯です。
現在は孫の藤岡香奈子さんが「ふじ」という工房を構えています。
鮮やかで力強い青色に、しばらく立ち尽くしてしまいました。
そして、やちむんの里で沢山のやちむんを見ているうち、なぜか幸せな気持ちになってきたのです。
それはきっと、「日常生活の道具」の中にある温かさを感じられたからだと思います。
沖縄にもあった、日本そば屋さん
最後に、「日本そば」のお店をご紹介いたします。
沖縄と言えば「沖縄そば(ソーキそば)」ですが、どうしても「日本そば」を食べたいという欲求にかられてしまうことがあります。
そしてたどり着いたのが、ここです。
嘉手納(かでな)町役場から徒歩2~3分の場所にあります。
「日本そば工房 せい家」さんです。
店主は女性の方で、なんとご出身が、福島県の会津(あいず)ということで、私と同じ東北出身の方でした。
お客さんも内地(ないち…沖縄以外の日本のことを指して使われます)出身者が多いということです。
私と同じように「沖縄はもちろん大好きだけど日本そばが時々無性に食べたくなる」ひとたちが足を運ぶのでしょう。
「日本そば せい家」さん近くの路地裏。
こうゆう通り、個人的に大好きです。
静かでありながら、生活の温かみを感じられるからでしょうか。
それではまた、次回にお会いしましょう。