うちなー滞在記vol.11「三山時代にタイムスリップ~護佐丸の築城と松並木~」

沖縄に移り住んで早一年が経とうとしています。一年前に吹いていた風、冬へ向かう空気の冷たさが思い出されます。

「うちなー(沖縄)でやっていけるだろうか」

「うちなーんちゅ(沖縄の人たち)と私は何が違うのだろう」

当初、そんな不安と好奇心とを抱きながら生活していました。しかし、様々な人と接するうち、不安は徐々に解消されていきました。

「うちなーには様々な国籍を持つ人たち、本土(沖縄以外の日本)の人たちが暮らしている」ことは心強さを与えてくれました。

「うちなーには様々な異文化との交流の歴史があった」ことを知れたのも、大きな理由の一つです。

そして、風習や言葉の違いは “違い” として尊重し、残そうとしているうちなー文化に触れているうち、「違うことは当たり前」「違っていて良い」と思えるようになりました。

さて、今回は時をさかのぼること600年。三山時代に築城されたといわれる沖縄本島中部・読谷村(よみたんそん)の世界遺産「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」をご紹介します。

築城の名手・護佐丸のアーチ門

座喜味城(ざきみじょう・ざきみぐすく)は琉球王国(1429年~1879年)成立前の1420年頃、護佐丸(ごさまる)という人物により築かれたと伝えられています。

その頃、南山・中山・北山(現在の沖縄本島南部・中部・北部とほぼ重なる範囲)の有力な豪族たちが覇権を争っていました。「三山(さんざん・みやま)時代」と呼ばれる戦乱の世です。

グスク前の傾斜面には無数のリュウキュウマツ(琉球松)が。

北山の今帰仁グスク城主「攀安知(はんあんち)」は、中山の首里グスクを攻めようとします。

しかし、周辺の按司(あじ…地方豪族の称号)は攀安知を恐れていたため、このことを中山王へ密告します。

中山王は北山攻略の必要性を感じ、今帰仁グスク遠征を命じます。そのとき「読谷山(ゆんたんざ)按司」として護佐丸は遠征に加わります。

「地形をうまく利用した築城」と「剛勇な兵士の存在」により“難攻不落”とされていた今帰仁グスク。

中山の尚巴志(しょうはし…のちに琉球王国を成立させる人物)を中心とした連合軍は正攻法では攻略できず、謀略(ぼうりゃく…だまし討ち)を用いなければ落城できなかった程でした。

一の曲輪のアーチ門。曲輪(くるわ)とは、城壁で囲まれた一つの区画を表します。一の曲輪は最上段の区画のこと。

護佐丸は、今帰仁グスクのその堅固な築城技術に大いに感嘆したといいます。自らの「座喜味グスク」の築城にその技法を取り入れるほどでした。

私は今帰仁グスクへも行きましたが、グスクが建つ場所の「地形が似ている」と感じました。

今帰仁グスク・一の曲輪より。

今帰仁グスクの裏手には急峻な谷が広がっており、侵入は困難だったと考えられます。

そしてこちらが座喜味グスク裏手からの景色です。

座喜味グスク・一の曲輪より。

急峻な坂と樹木の生い茂り方がとても似ています。さらに正面の門にたどり着くまでの長い斜面も共通していました。

護佐丸は、戦いの中で感じたものを取り入れていく「柔軟さ」と「貪欲さ」を兼ね備えていたのでしょう。

戦のためのグスク

では、護佐丸が築いた座喜味グスクの特徴をいくつか見ていきましょう。

二の曲輪アーチ門の右側の城壁はこのように大きく張り出しています。

城内に向かってくる侵入者に対して“横矢(よこや)”を放つための形状なのだそうです。

二の曲輪より。右は一の曲輪の城壁。

ここは二の曲輪アーチ門を通って左へ進んだ場所です。ここを進むと突如急な斜面となり、さらには行き止まりとなってしまいます。

侵入者をここへ誘導する戦術をとっていたことが容易に想像できます。

これがその斜面です。

さらに城壁をやや斜めに造ることにより、城壁の上より攻撃を加えやすくしています。

ここは一の曲輪アーチ門の内側。比較的大きな石が横目でそろっている「布積み(ぬのづみ)」といわれる積み方です。

座喜味グスクはここも含め一部を除いて「野面積み(のづらづみ)」といわれる自然石をそのまま積み上げる技法がとられています。

これは、戦乱の世で築城を急がなくてはならなかった為だと推察されています。

一の曲輪・城壁上より。

このように、城壁へと上ることが出来るほど城壁に厚みがあるのも特徴のひとつです。

現在、城壁へ上がることが出来るのはここ「座喜味グスク」と「中グスク」のみです。いずれも護佐丸が築城したグスクです。

一の曲輪・城壁上より。

見晴らしがとてもよく、周囲の状況を知るためにとてもいい場所です。

非常事態には、狼煙(のろし)を上げ、中山王のいる首里グスクまで知らせることができたといわれています。

発掘調査による出土品、琉球王朝時代の書物、様々な分野の歴史調査をベースとして、様々なことが推察できることに好奇心をくすぐられました。

護佐丸がこの後に築いた「中グスク」へも、是非行ってみたいと思いました。

うちなーぐち講座③

最後に、沖縄の方言「うちなーぐち」をご紹介します。今回は「方角」です。

【東と西】

一般的に「ひがし」と「にし」と読みますが、うちなーぐちでは東を「あがり」、西を「いり」と言います。太陽が「あがる」方角が東、「入る」方角が西ということに由来していると考えられています。

「サーターグルマ(砂糖車)」。サトウキビを搾る道具。

沖縄本島北部・名護市の“東江”という地名は「あがりえ」と読みますし、名字でも「東江さん」は「あがりえさん」です。

沖縄本島中部・うるま市の“西原”と書いて「いりばる」と読む地名がある一方、“西原町”と書いて「にしはらちょう」と読む地名もあります。

「にしはらちょう」にはもう少し秘密がありますが、続きをお読みになってみてください。

【南と北】

東と西に関しては言葉の由来で理解できますが、南と北に関してはそうはいかないようです。

南は「ふぇー」と読みます。語源に関しては不明です。「南風」は「ふぇーかじ」、那覇市の南に位置する「南風原」は「はえばる(ふぇーばる)」と読みます。

「厨子甕(ずしがめ)」。洗骨後の骨を納めるもの。陶製と石製があるが、年代的に石製のものが古い。

さて、一番注意しなくてはならないのが“北”です。北は「にし」と読みます。語源に関しては「去にし(いにし)」という説がありますが、定かではありません。「北風」は「にしかじ」と読みます。

上述の「にしはらちょう(西原町)」は、西に位置するという意味ではなく、実は琉球王府のあった首里の「北(にし)」に位置したのでそのような地名になりました。本来であれば「北原町」と書いて「にしばるちょう」とするのが正確だったようです。

道を尋ねたとき「北」と「西」では大違いなので、一度確認してみると良いかもしれません。

それではまた、次回にお会いしましょう。

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